自己嫌悪

無能落伍者が書いているブログです。

ニートは自殺しろという主張

 

実情

余りにも過激ではありますが、口に出さないまでも、働く,もしくは学ぶ誰もが一度は考えたことがあるだろう

穀潰しは死ね

これについて考えてみたいと思います。

もちろん正誤を決めようというわけではありません。そんなものないですし。倫理観の問題ですから。

私は今限りなくニートに近い状態なので、多少の偏りは生じるかもしれませんがご了承ください。

 

一般寄りの考え

奴らニートは俺らがストレスため込んで稼いだ金で悠々自適な生活をしている。働いていないのにこんなことが許されてはいけない。

私たちはイライライライラしてやっと生きてるっていうのにあいつらときたら..... 

穀潰しなんて死んじまえ。こう思うのも当然だろ?

あぁ?あいつらの精神的サポート?そんなもん知るか!!俺たちのケアをしてほしいもんだがね!!!!

ニート寄りの考え

まずニートニートとして生き続けられる理由に他者からの庇護というものがあります。それが親であれ税金であれ、最低限度の生活を保障してくれる何者かの存在は彼らをニートという立場に甘んじさせます。この事実が多くの人々の顰蹙を買っているのだでしょう。しかしよく考えてみてください。確かに物質的豊かさという点にかけてはこれほどにコスパの良い方法はないでしょうが(0から有を生み出せるため)、荒廃した精神はそれをも容易く飲み込み、瞬く間に荒地を作り上げるのです。

つまり金は手に入っても、絶望感は決してぬぐえないということです。それはもちろん社会への負い目もありますし、何も見えない未来への失望、当たり前ができない劣等感などの様々な原因があり、実際、生活保護受給者の自殺率は一般の約2倍で、さらに20代においては約6倍となっております。

ところでニートニートになる原因とは何でしょうか。皆さんは「普通」に生きていればニートになどならんだろと考えていると思いますが、確かにその通りです。

逆に「普通」に生きてこられなかったからニートなんて言う穀潰しになるのです。「普通」に生きることができず、そして「普通」になれなかった人間はこの日本社会で逃げ場を求めニートに行きつきます。

しかし先ほど述べたように、逃げた先でも絶えることのない絶望感が責め立ててきます。そこからさらに逃げたいニートは自殺を選びます。そこで絶望感の一翼を担っているのは間違いなく

 

穀潰しは死ね

 

という風潮でしょう。

ニートが変わるための主張

私にはそのまま生き続けるのか、それとも死ぬのか、どちらが良い考えなのか分かりませんが、選択肢をもう一つ増やせばどうなるでしょうか?

社会の支援なしに稲を耕すのは不可能です。集約的ではなく根本に向き合った多角的なサポートが今必要となっているのです。そしてそのためには世論の意識改革が必要だと私は考えます。