自己嫌悪

無能落伍者が書いているブログです。

嫉妬

 

 

嫉妬から芽生える殺意

 

感情の生物

 

人は感情の生物です。喜怒哀楽という四字熟語が端的に示してくれるように、何を行うにも感情が付きまといます。決して逃れられません。
もちろん嫉妬も感情ですから、死ぬまで付き合っていかねばなりません。
激情、そして報復。血で血を洗う争い。嫉妬は感情の中でも特に恐ろしいものです。どれだけ恵まれていても恵まれていなくても、この悪魔に魅入られてしまえば、等しく破滅を迎えてしまうのですから。
そこで破滅を少しでも遠ざけるため、一度、嫉妬について考えて見たいと思います。

 

 

凶行に至るまで

嫉妬の芽

人は生物である以上、自然淘汰の渦中から逃れられません。競争を避けられないのです。だから自分より優れた存在を見つけた時、対抗意識が芽生えます。彼我の差がわずかである場合それが嫉妬に変わることはありません。差が大きすぎる場合も同様です。
まず、今の自分で十分対抗できる(と考えられる)相手なら、嫉妬するリソースを努力に回したほうが、相手を打ち倒す可能性が高くなる、と冷静に考えられます。
また、今の自分でも未来の自分でもどうしようもないほど優れた、先天的、後天的幸運を持ち合わせた相手、雲の上の人であれば、ほとんどは嫉妬のむなしさに気付き、すぐに嫉妬をやめます。
ですから、多くの場合極端に近く、そして遠い相手に嫉妬は芽生えません。
ならばどの様な相手に生まれるのかと言うと、それは 雲に隠れて見えないほど遠くはないけど、簡単に手が届くほど近くもない人です。二メートルくらい上にぷかぷか浮いているような人です。

嫉妬の葉

椅子を持ってきたくらいでは届かない、はしごを持ってきてようやく届くくらいの人に嫉妬をしてしまうのです。想像できてしまうのがだめなんです。あれくらいならいつかたどり着けるぞ、なんて考えるから、対抗意識を燃やしてしまうのですが、実際にはそう簡単ではありません。同じ場所で待ってくれるほど、世界は優しくありません。時間は絶えず流れていきますから、私やあなたが息を切らせながらはしごを持ってきた時、二メートル上で浮いていた相手は、もしかするともう二メートル空に近づいているかもしれない。梯子を上る間にもう二メートル、地面から離れているかもしれない。愚かな私たちはそれにさえ気づかず、じっとりとした笑みを浮かべて梯子を上ってしまう。そして顔を上げた瞬間、現実を正しく認識する。自分はあれに一生勝てないのかもしれないと。
ですが、ぽつんと残された対抗意識は空回りしたまま。臨界を迎えた原子炉、止まることを知らない核融合反応のように、対抗意識は手遅れになるまで消えてくれないのです。止まらない対抗意識はそのうち嫉妬になって、私たちを苦しめ始めます。
誰もが気付いているのです。空を飛べない時点で絶対に勝てないのだと。
でも、「たった四メートル上だ。まだ近い。」と対抗意識を正当化してしまう。
何度も何度も馬鹿みたいに梯子を持ってきて、不安定な梯子を一生懸命上って、でもいつまでたっても追いつけない。
相手が雲の上まで到達したころになってようやく、ある童話を思い出します。
ウサギと亀の童話。ウサギが歩みを止めない限り、亀は決して勝てない。
その時梯子は音を立てて崩れ去る。私たちも落ちる。地面にたたきつけられ、虫の息で空を見上げる。涙を流しながら。

嫉妬の花

 

これは精神的な破滅と言っていいと思います。でもまだすべてが壊れたわけではない。
社会に生きる場所はあるだろうし、自分より下の人間なんてたくさんいる。読書、旅行、睡眠、引きこもり、ゲーム依存、ギャンブル依存。...自尊心を守る方法なんていくらでもあります。ですが私たちは時に、それさえ壊してしまう。
屈辱、もはや意味をなさない対抗意識、そして殺意。そうです。殺意です。精神世界で手の届かない相手でも、現実世界では グサリ、と包丁を突き立てることができる。触れられるのです。上がる叫び声、倒れる憎悪の的、流れる赤黒い血、連行される私。 これこそが真の破滅です。
社会にも、精神世界にも居場所がなくなって、残された手段はただ二つ。...無気力に、刑務所で死んだように生きるか、もしくは鉄も溶けるほどの熱量をもってして、己に包丁を突き立てるか。どちらにせよ、ろくでもない。だからなにをしても真の破滅だけは避けなければなりません。

 

自問自答

私のような嫉妬深い人間ができることは、自分に期待しない。誰とも張り合わない。せいぜいこれくらいです。嫉妬に苦しむ人間は、それだけ無力で、何もできない。理性のある限りは。
この理性がいつまで持つか私には分かりません。だからそれまでに何か良い方法を考えないといけない。それが「自分の命を絶つ」以外の方法であることを望みます。