自己嫌悪

無能落伍者が書いているブログです。

自己否定からの復帰

どれだけ偉大な人でも、どれだけ矮小な人でも、

自分を常に肯定できるわけではない。

苦汁を味わうことなく成功する人間も、失敗する人間も

この世には存在しない。

でも偉大な人が偉大であると言われるのは、

自己否定をただ飲み込むだけではないからなのだろう。

彼ら、彼女らはその苦みを

舌の上で何度も転がし、嫌というほど味わい、

そして自身の唾液で希薄されたころにようやく飲み込むのである。

そこでようやく意味を見出すことができるのだろう。

その苦しみに。

 

自己否定の存在意義

きっかけ

私は最初、自己否定が自然淘汰のために用意された機構であるかのように感じた。

自己否定が心に芽生えた途端、今まで平然と話していた人物相手にも、何処か負い目のようなものを感じてしまい、次には今まで平然と所属していたコミュニティ相手にすらも、同じ感情を抱いてしまう。

そしてこれがさらに悪化すると、その負い目は社会全体へと拡張され、しまいには日本、地球上、宇宙にさえ居場所が失われる。

その結果私は自身の思考世界にただ一つの居場所を見出すことになった。

 

当然だがその思考世界には私以外に誰もいなかった。

私はその場所でいろいろなことを考えた

人生、生命だとか、果ては宇宙の意味

できるだけ現実味の薄いことを、平凡な頭脳でできるだけ考えた。

思考は現実から離れてゆき、具体は消えうせ、私は現実から目を離していく。

完璧な主観の世界で、客観なんて一切存在しない都合のいい世界。

きっと心地の良い場所なんだろう。

その場所は。

誰と比べられることもないし、誰にも劣ることがない。

自分を否定する必要もない。

自身の主観が絶対的で、万物の運命さえも決定づける。

万能感。

中学生や小学生のころのような、根拠のないものではない。

全てを支配する万能感。

それに満たされているそこは果たして楽園だろうか。

 

いや、むしろ地獄だった。

 

離れるたび、ぞわっと、

思考のはざまに流れるのは

現実という雑音。

耳をふさいでも鳴りやまないそれは、

理想の世界を、陳腐で、つまらない、

この気持ちの悪いポエムのような

妄想へと作り替えた、

いや、そうであると露わにした。

 

現実を忘れる事さえできたなら。

 

思考をめぐるのはその念仏だけで、

無限に流れる頼りない木片にしがみ付かざるを得なかった私は、

現実におぼれまいと必死になる。

 

でも私は気が付いていた。

再確認させられた。

居場所を新たに作り出すことなんて不可能なのだと。

 

そして妄想は消えうせた。

気づき

私は再び自己否定と向き合うこととなった。

いや、向き合わざるを得なくなった。

逃げ場がないと悟ったからだ。

だから私は問いかけ続けた。

 

自己否定は他人の存在故に生まれる。

 

ではなぜ他人は私に影響を与えることができるのか?

 それは私が他者を評価することで、自己の至らなさを自覚するからである。

 では私が行う他者の評価とは、なんだろうか。

 それは成績や収入、容姿を知覚することである。

知覚し、そして主観によって評価する。

それが自己否定の正体である。

 では主観とは何だろうか。

 主観とは全く信用できないものである。

 

私が思考世界に逃げた時、そこを支配したのは主観であった。

主観は物事を好き勝手に意味づけするし、その上

その意味付けは大抵自分にとって都合のいいものだ。

(たとえ都合が悪そうに見えたとしても)

 

例えば今 人が死後どうなるか知っている人間はいないだろう。

だが質問すれば皆何かしらの答えを返すはずだ。

無になるという人もいるし、天国があるという人もいるだろう。

 

これも死後に対する都合のいい意味付けである。

 

だがそれを否定する必要はない。

この世界はすべて人間の意味付けでできた、

砂上の楼閣で、いつまでも存在していて、いつまでも存在しない。

いわば妄想が寄り集まってできた思考世界。

私がした楽園の妄想と大して変わらない。

 

 

 

私は自己否定と向き合った結果、自分にとって都合のいい意味付けを手に入れることができた。

それは妄想なんかではなく、意味づけした自分自身にとっては現実で、真実なのである。

このおかげで少しは楽に生きることができそうだ。