底辺から考察する人間
私の底辺たる所以
- パーソナルスペースが広すぎる。
- 人見知りが激しい。
- 会話が苦手。
- 突発的な出来事に弱い。
- 何事も継続できない。
- 自意識過剰。
- 動揺しやすい。
- 自己肯定できていない。
- 見た目が悪い。
- 根暗。
- 機転が全く利かない。
- 卑屈。
- 無気力。
- 精神的に不安定。
世間一般の価値観から見た欠点
(15.死ぬことに対してのみ救いを感じている)
欠点が生まれた理由
先天的な欠点:9番
私には運がなかった。ただそれだけである。
後天的な欠点:9番以外
自身の生育過程で生じた出来事や、先天的欠点から派生したものがほとんどである。
特に幼いころの過剰な特別扱いが原因の中心を占めると考える。私は知らぬ間に他人を見下す癖がついていたのだろう。実際小学校低学年の時には誰の注意も助言も聞かず、藤原道長の言葉を借りると「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思えば」という様相であった。当時の記憶で脳裏に浮かぶのは先生に教室に残るように命令されても、無理やりに帰宅するというある意味での天下無双ぶりである。
最初は小さなほころびだったのかもしれないが、結局のところ修復不可能な状態にまで広がったのである。中学高校と進学するにつれてほころびは広がり、自身の理想とはかけ離れた人間になってしまっていた。
二つの選択肢
- 死ぬ覚悟を持つまでひたすら耐える。
- 「一般的人間」として生きるのをやめて、苦痛から逃げ続ける。
私が実行できそうなのはこの二つだけである。
2番は苦痛から逃れられて一見楽そうに見える。
1番を行った際には私は死ぬまで苦痛を受け続けることになりそうだ。
しかし私が持つ「一般人」としての感性は、こちらに魅力を感じてやまない。
私は人間が持つレールに乗り続けることの安心感を知っている。未来が見えることによって、人間に備わった性、未来を想像できるという優れた頭脳、により生み出される不安から逃れることが可能になるのである。
故に規則に縛られた現代人の大半はこちらを選ぶということも知っている。また日本という国家は規則に従って生き続ける人間に対して非常にやさしい。いくら私が無能であれども、少なくとも餓死するなどということはないだろう。
実際2番を選んだ際にはそもそも人間として生活できるかも怪しくなる。日本に対する生産的行為を拒否すると餓死待ったなしであろう。親が生きている間はともかく。
さらに私の罪悪感は、「一般的」道徳とやらに縛られた私の精神は自己破壊を始める。
本能的に人類の最適化を優先したかのように自発的に死へと向かう。
考察
そもそも今すぐ死を選べるならこのようなことは考える必要すらないのだが、残念なことに私の理性、感性、道徳、あらゆるものは自殺を阻んでくるのだ。ここで皮肉にもこのような構図が出来上がる。
1番を選んでも2番を選んでも、完全な苦痛からの解放(=死)を最終的には享受するということは変わらない。しかしそれを押しとどめるのは常識という鎖で、がんじがらめにされた心なのである。社会という十字軍がせっかく開放するために働いてくれるにもかかわらず、私はひたすら妨害するのである。
私は生きているだけで苦痛を感じる。それにもかかわらずひたすら生きようとするのは動物としての本能であろうか。人間は神などではない。ましてや人間は人間が想像する意味での人間ですらないかもしれない。ほとんどの人は自分に自我があると考えているであろう。しかしあらゆる生物の根幹である「生きる」ということに私たちは自我を奪われているのではないだろうか。
結論
私たちが死ぬという行為を許されるのは寿命や事故で死ぬか、もしくは自身の存在がホモサピエンスという種から必要にされなくなった時なのかもしれない。
私たちは結局ただ本能に従う動物なのである。つまり人間はそこらにいる獣と決して変わらない。