身体的健全者に対する安楽死の必要性
道徳による生存教唆
道徳の「命をすてるなんてとんでもないことだ」という考えは世の中に浸透している。
実際、誰かが自殺をしたいと書き込むと、すぐに道徳的な回答が返ってくるはずだ。「自殺なんてしたらだめだよ」と。ほとんどの日本人は何も考えることなくこう答えるだろう。
確かに道徳は自殺をする人間を減らしているかもしれない。
しかしこれは必ずしも良い方向へ働いているわけではない。
というのも道徳は自殺教唆ならぬ生存教唆をしている可能性があるのだ。
三途への旅路
生物というものは元来嫌な環境を避けるものである。しかし現代社会においては嫌なことを避けるというのは困難になっている。
特に日本人は不安定を嫌い、いやだと思っている環境からなかなか逃げ出そうとしない。ブラック企業の社畜が典型例である。
そのような個人はストレスを蓄積させていくが、しかし常識という鎖に一度とらわれた彼らはどうしようもないのである。
社会常識から逃れようとしても、"仲間"の同調圧力にさらされ逃走を阻止される。
常識から逃れたとしても、社会全体から集中的に批判されるのである。
いったんストレスフルな環境に足を突っ込むと、常識に従い苦痛を受け続けるか、常識を捨て社会不適合の資格を得るか。この二つに一つしかないのだ。
このような状況になってはじめてあらわれる選択肢が”自殺”だ。しかし道徳によって教育、もとい洗脳されている我々は果たしてこの選択肢を選ぶことができるだろうか。
確かに自殺を選ぶことは多少躊躇するだろう。今までに作り上げられた道徳心が足かせになっているのだから。
しかし道徳は三途の川への所要時間を延ばすかもしれないが、決して人間の歩みを止められない。
環境が変わらない限り、精神は限界へ近づいていく。そして結局は自殺を選ぶのである。つまり道徳はいたずらに苦しむ時間を延ばしているだけだ。
主張
さらに自殺志願者の多い社会では様々な弊害が発生する。彼らは死にたいにもかかわらず死ねない現状にさらなるストレスを感じ、外へと発散しようとする。それは物に当たることだったり、時には通り魔殺人という形で発揮されることもある。
このような弊害をなくすために、容易に自殺できる安楽死は日本に必須であると私は考える。